2010年12月1日水曜日

読論文におけるクラウド、EvernoteとGoodreaderの利用

今回は、論文作成におけるEvernote とGoodreaderの利用に関して書きたい。
有用性の高いものなのでみなさんも是非じっくり読んで、今後の論文作成ライフに生かしてほしい。

最近の僕のIT武装は前回のブログを参考にして頂けると良いのだが、もう一度簡単に説明すると
iPad, iPhone, pocket wi-fi, で武装しているということだ。

現在はこれらを使いこなそうと試行錯誤しているところではあるが、徐々に完成に近付いている手ごたえを感じてきたので、今日はそれをご紹介したい。
正直、自分でも驚くばかりであるが、以下を読んでいただければ
如何に、最近流行りだしたクラウドとiPadのような多機能タブレット型PCの相性がいいかがわかって頂けるだろう。

クラウドと言うのは、インターネット上にデータを保存し、どこからでも、どのデバイスでも、インターネットにつながりブラウジングできるならばその情報を取り出し読んだり、編集したりできるものだ。USBをそのままインターネット上に取り入れたものと考えて頂ければ早い。
多機能タブレット型PCとは、iPadのようなものをさし、e-インクを使用し読書だけに特化したキンドルよりもパソコンに近いものをいう。

まず、データベースの閲覧をすることから始まる。
その閲覧の質は、単純にパソコンを通した閲覧とまったく違ったものとなる。
しかも、Evernoteと Goodreaderのコンボでさらに、作業ははかどる。

初めにパソコンなりiPadでデータベースを探り、卒論に必要な文献を見つけ出す。大量で構わない。精査は後ほど時間のあるときに行えばよい。
見つけ出した文献は、pdf形式のものである可能性が大半なので、メールでデータを送ることが可能であり、それをEvernote宛てに送る。もちろん、他のクラウドでもよい。私は、本当に重要そうなものはSugarSyncを使っている。クラウドとして保存できるのが5Gまでと制約のあるSugarSyncではあるがユーザーインターフェイス(UI)ははっきり言って、Evernoteとは比較にならないほど良い。(と個人的には思っている。)UIに関しては人それぞれなので、実際に使ってみることをお勧めする。そもそもSugarSyncはEvernoteとは違うサービスを提供しているので、これに関しては後日述べたい。もちろん、EvernoteにはEvernoteの強みがあり私はEvernoteも使っている。
話を戻すが、ここで実はもっと簡単な方法もある。iPadにおいてGoodreaderを通じてブラウジングができるのだが、その際に気に入ったページをそのままGoodreaderに取り込むのだ。
スクリーンショットと言うよりは、ブックマークするといった形なので、元のサイトが消えてしまうと見れなくなってしまうのが難点だが、リンクなどはそのままに閲覧できるので、そういった強みもある。

ではなぜ、Evernote経由かと言うと、Goodreaderにはクラウド機能がないからである。Evernoteにダウンロードしておけば、いつでもどこでもその文献が読める。つまり、自宅で見つけた文献をEvernoteに送っておけばiPhone上でもiPad上でも、自宅のデスクトップ、オフィスのパソコン、インターネットカフェ、と、インターネットがある限りどこででも閲覧することが可能なのだ。
EvernoteにダウンロードしたものをiPadで読む場合はその文献を、Goodreaderにダウンロード(メール送信)して読む。Goodreaderの良いところは単なるPDFビューワ―ではなく、音楽やビデオファイルの再生・圧縮・解凍が可能であるところだ。つまりリッチコンテクストの大半に対応しているのである。

なぜわざわざGoodreaderにダウンロードするのかと言うと、Goodreaderではanotationという、pdfファイルにハイライト、下線、○枠や□枠、さらに手書きでの書きこみができるからだ。
文献を読むにあたりanotationができるかできないかは大きな違いである。これができなくては紙媒体で自由に書き込みできる状態で読んだ方が良い。
以上のように必要な文献をありったけクラウドに入れ、iPad等のviewerでGoodreaderを通じて文献を読みこむ。iPadのviewerとしての能力はパソコンを上回り、小さい画面のスマートフォンを凌駕し、紙とは比べもにならない量の情報を持ち運ぶことができる。そもそも、「持ち運ぶ」という概念がクラウド登場以降、古臭くなってしまったのだが。


以上で、大まかな説明は終えた。
iPad
Evernote
Goodreader
の三コンボで文献を処理する効率はぐっと上がる。
さらに、「インターネットがあれば」という(日本においては)最大の障壁も、pocket wi-fiを持つことにより取り除かれる。もちろんwi-fiはまだまだ、つながらないところも多いので注意は必要である。

iPad等のタブレットを持っていない方も一度クラウドの素晴らしさ、有用性を体験しておくのが吉だろう。以下のリンクからEvernoteとSugarSyncのサイトにいけるので覗いてみてほしい。

Evernote

SugarSync


ちなみに、かなり重大な事実がこの記事を書いているときに判明した。
Evernoteと似たサービスを提供するDropboxというサービスがある。
しかも、これがGoodreaderと正式にタイアップしているのである。
詳しくはこちらを参照して頂きたい。
もしかしたら、私もDropboxにするかもしれません。
ということで、いづれはEvernoteとSugarsyncとDropbox徹底比較をしたいと思います。

では。




IT武装

最近のお前はIT武装している。
と、父に言われた。

ITビジネスを生業にしようとしている人間であるから、IT武装をして、いかにIT市場が形成されているのかを身をもって体感するのは必要なことだろう。
というわけで、最近はますますIT武装を進めている。

今回は、私がどの様なものでIT武装しているかを紹介し、今後IT武装するかもしれない読者の参考になれば幸いである。
以下が最近私が持ち歩いているデバイス群である。

まずiPhone 4


















iPhone、ひいてはすべてのスマートフォンに言えることであるが、その利便性は過去に類を見ない。
スマートフォンを持たずしてITビジネスをしようものなら、それはITビジネスにあらず。といっては言い過ぎだが、そんな気概を私は持っている。
もうひとつ言うとすれば、店頭で実機を触った感覚だと、他のスマートフォンに比べてiPhone4が一番ぬるぬる動く。ぬるぬる感はピカ一である。それがそのまま処理速度の速さを表しているわけではないのであしからず。

そして、つい最近導入したiPadを持ち歩いている。

正直、iPad 2 の発売が3月もしくは4月に予想されている中で買ったわけだが、私は一切後悔していない。
iPadの可能性に日々気付かされ、刺激を受け続けている。
しかし、当初の予想通り、重たさが意外とネックになっている。手で持つ分には太ももに載せたり、机に置いたり、立てかけたりと対処はできるが、歩いているときに意外とその重さを感じる。これには、肩掛けカバンよりもリュックで対応したほうがいいだろう。少なくとも私はそうしている。
スーツになった時にどうなるかはまだ考えていない。iPadを持ち歩くことは確かであるが、リュックにするわけにもいかないのでおそらく肩掛けになると思われる。
ただ、電子書籍化が進んでいけば、文庫本一冊、ビジネス雑誌、新聞、手帳、といったこれらのすべてがiPadに収まるわけなので、内容量と重量を比べて考えれば、実際そこまで重たいものではないのかもしれない。単に私の体力がないだけである、という結論に至る。

そして、トランシーバー的な立ち位置でsoftbank 820pを携帯している。
これは、ファミリー契約をすることにより、家族との24時間通話無料を基本料6円という激安価格で可能にしている。しかし、最近iPhoneでskypeが利用できることが判明したので、こちらの携帯電話はいらなくなる可能性が大きい。Skypeの着信がiPhoneでポップアップするようなら真剣に検討してみたい案件である。


そして、最後にemobile pocket Wi-Fi を携帯している。

これは、自身を電波塔にしてくれる、すぐれものだ。
しかも3G回線より速度も速い。また、五台まで同時にインターネット接続ができる。
しかし、それは四時間の間だけである。ポケットWi-Fiの最大の難点はその電池容量の少なさだろう。

それを補うために、私はSoftbank Wi-Fi スポットを利用できるようにしている。
これなら、全国のマクドナルドやスターバックスなどでWi-fiを無料で利用できる。

以上の四つを常に持ち歩き、そして、1人暮らしの穴蔵に母艦としてwindows PCを置いている。

これらのデバイスはもともとが便利なものであるが、さらにアプリやクラウドなどを組み合わせることによりさらに便利なものになる。

次回からはそれらに焦点を当てて書いていきたい。
では、みなさんのIT武装の参考になれた事を願いつつ今回は締めたい。



2010年11月16日火曜日

小宇宙スマートフォン/iPhone4


先日iPhone4をついに購入しました!

いや、スマートフォンって凄いですね。
人の脳内を、よく「宇宙」に見立てますが、スマートフォン(つまり私の場合はiPhone4ですが)にも同様の事が言えるような気がします。

自分の手の中に新しい宇宙がやってきました。
といっても、過言ではないようです。

自分の手の中にインターネットという情報の激流を手に入れました。
今までの携帯で見ていたものとは何だったのか。
あれは、インターネットとは似て非なるものだと、今になって思います。

マルチタスクのおかげでそのように感じる、ということもあります。
マルチタスクとは、同時に複数のアプリケーションを稼働させることができるという意味で、例えば産経新聞を読めるアプリケーションで産経新聞を読んでいると同時に、読売新聞が読めるアプリケーションを起動して、バックグラウンドで記事をダウンロードさせることができるということです。もちろん、逆でもかまいません。

マルチタスクがなぜそんなに重要かと言うと、人間の脳に一歩近づいたことが重要なのだと思います。
人間の体は一度に多くのことをしています。呼吸をすると同時に心臓を動かし、瞬きして、焦点を合わせ、文章を考え、タイピングし、ブログを作っていきます。ブログを作る動作一つとっても同時に多数の事を行っています。それをコントロールするのが人間の脳なのです。

それに一歩近づいたのがスマートフォン。
今までの携帯電話ではサイトを閲覧しているときにメールが来たらそこで、終了です。もちろん最近の携帯の中にはメールにその場で対応できものもあるようですが、それでもマルチタスクには及ばない代物です。

スマートフォンと今までの携帯電話を比べること自体が、そもそも間違っているのかもしれません。
スマートフォンをこれから購入しようとしている方は、自問してみるといいでしょう。

「私はパソコンを持ち歩きたいか?」と
スマートフォンとはパソコンのようなものなのです。
そして、パソコンよりも柔軟な印象を受ける。
柔軟とは、使う場所を選ばないという意味で柔軟だということです。

パソコンを使う際は、大抵の場合椅子に座って机に向かいます。
この「椅子に座って机に向かって」という一連の環境設定がパソコンの柔軟性を失わせているのです。
そして、逆にスマートフォンの柔軟性が目立ってきます。

「いつでもどこでも」といったように身体的にも人間に近付いたスマートフォン。
「いつでもどこでも」それが可能だからこそ、私はスマートフォンに「宇宙」たる可能性を感じています。

今までの、携帯電話では自由度が低すぎて「宇宙」足り得なかった。
また、パソコンでは、使用環境を選ぶという不自由さで「宇宙」足り得なかった。

しかし、スマートフォンは場所を選ばず、自由度も携帯の比ではない。

スマートフォン。第3の宇宙。
良い響きです。


2010年11月10日水曜日

雑誌:情報管理 


11月10日

ICU図書館、つまりオスマー図書館で「情報管理」という雑誌を発見した。

この雑誌は、図書館を記事の中心におく他の図書館雑誌とは一線を画し、図書館に端を発する情報の扱い方をいかに現代にあったものにしていくかを模索していく、挑戦的な雑誌である。

独立行政法人 科学技術振興機構 が提供している。

11月号を読んで衝撃を受けた。

なんと先進的な事を試みているのか、と。しかし、そう思うのは図書館に対して失礼というものである。
みなさんも、図書館学を一度でいいので受講してみてほしい。かれらの情報にたいするアグレッシブさには目を見張るものがある。そして、彼らのそれらの業績に対するプライドもそれを十分に立証するものである、と私は思う。

図書館のレファレンスサービスを一度使ってほしい。
「レファレンスサービスとはなにをしてくれるところなんですか?」という質問から始めてもらって構わない。
このような、質問に答えることもレファレンスサービスの立派な業務なのだ。
彼らは情報を扱っている。
利用者が、どんなものであれ情報を求める場合、それは彼らの業務の本質なのだ。

大学図書館、公立図書館、私立図書館で程度の差こそあるかもしれないが、基本的には変わらない。

大学図書館に至っては、かなり専門的な情報の居場所を質問しても、そのソースをもってきてくれる。もしくは、その情報がないことを証明してくれる。

古来から図書館は情報のハブ地であり、市民の啓蒙の拠点だった。

電子化が進む現代、図書館は時代の流れに置いていかれているのであろうか?
いや、違うのである。

逆に先進的なことをしているのが図書館である。

皆さんは、図書館=本=電子化に乗り遅れる
というイメージをお持ちかもしれないが、それは今日をもって捨ててほしい。
いままでが

図書館=情報=本

という形態だったにすぎないのであり、図書館は常に情報を中心に置いた活動を心がけているのである。かれらの、電子化に対するフロンティア精神は目を見張るものがあり、尊敬の念すら抱く。かのアマゾンでさえ、実は図書館界が発明した図書検索システムを利用しているのだから、彼らの先進性は侮ってはいけない。むしろ、学ぶべきものが大いにあるのだ。

本が電子化を恐れているというイメージがどこから来るのか。少なくとも図書館ではない。
図書館は積極的に電子化に対応しようとしている。彼らに守るべき利権はない。彼らが守りたいのは古来からの役割であり、それを成し続けてきたというプライドである。

恐れながら言わせていただくと、図書館はここ何年か、市民の啓蒙の場として第一線から退いていたかもしれない。
なぜなら、新聞やテレビがマスメディアとして成長し市民に対する情報の流れを一手に持って行ってしまったからである。本屋もそうかもしれない。

しかし、電子化、電子書籍化の時代は図書館に再び光を灯す。
それを、彼らもわかっているのだろうか。何度も述べるが彼らの電子化に対するフロンティア精神は見上げたものがある。

本の電子化に対して恐れているのはどこだろうか。

図書館ではない。本そのものでもない。
おそらく、出版社であり、テレビであり、新聞である。
本そのものにとって、電子化は情報本来の形に近付くことであり望ましいことだ。
これはそのまま、図書館にも言える。

図書館は、情報そのものを扱う事を生業にしている。図書館は利用者を情報に導くことを生業にしている。出版社やテレビや新聞は、導くのではなく情報を押し売るのである。この違いが、本の電子化、文章の電子化、情報の電子化におけるスタンスの違いを表しているのでないだろうか。

電子化により、情報全体へのアクセス可能性が一気に増大する時代がやってくる。
この時勢になって、ついに再び図書館に焦点が当たるのである。

人々は情報の大海の中で迷える子羊のように泣き声を上げるだろう。
そこで、松明を掲げ人々を求める情報へといざなうのが図書館であり、優秀な司書達なのである。

このようにいうと、古めかしいマントを着た人が導いてくれるようなイメージがわくが実際はそうではない。
最近の優秀な司書とは、電子端末を手足のごとく使いこなし、インターネットの荒波も軽々と手なずけ、webの深みへと一瞬でたどり着けるサイバー強者なのである。

雑誌、「情報管理」は図書、図書館に関わる現代の歩みが載せている月刊誌である。
レファレンスサービスセンターにいって、質問できないような方は一度購読してみたらどうだろうか。

もちろん、「情報管理」は電子書籍化されているので internet上でダウンロード購読も可能だ。
と、おもって検索したところなんと、インターネット上では無料で読めることが判明した。
(リンクはこちらhttp://johokanri.jp/)

恐るべし、です。

みなさん、是非一度図書館業界、図書業界が今どの様な方向に進んでいるのかを読んでみてはいかがでしょうか?






2010年8月22日日曜日

映画「愛のむきだし LOVE EXPOSURE」


日本にはさまざまな宗教があります。大抵の町には神社や寺が立っています。時にはお坊さんが駅で立っていることもあります。日本人は無宗教なんて言いますが「ばちがあたる」などといってちゃっかり神様を信じていたりします。
そんな曖昧な宗教感の日本だからこそなのか、さまざまな宗教が発生しては消えと、かなり不気味な様相を作り上げています。中には「洗脳」といった手段や集団スト―キングなどの手法を使っている宗教もあります。

そんな宗教集団を絡めて愛について描かれている「愛のむきだし LOVE EXPOSURE」という映画を先日観ました。

主演俳優は 西島隆弘
主演女優は 満島ひかり
助演クラスに 安藤サクラ 渡辺真起子 渡部篤郎

そして 原案・脚本・監督 園子温

映画は全部でなんと237分!
こんなに長い映画は初めてと言っても過言ではない。James Francis Cameron 監督制作、1997年公開のタイタニックですら189分ですから、237分というとかなりの長さだということがお分かり頂けると思います。

この映画のなかで語られているのは「愛」についてのなのですが、私はその中でも宗教における愛と結婚における愛の違いについて着目しました。

キリスト教では隣人を愛せという有名な節があることは有名だと思います。
しかし、同時に神父等は結婚を許されていません。神に仕えているかららしいのですが・・。
そして、結婚式も神の名のもとに行われ、永遠の愛を誓わされます。結婚を許されていない神父が神の代行を行っている結婚式で、です。

映画の中で神父である主人公の父が再婚するために神父をやめなくてはならない場面があります。そこで、先輩の神父がこういいます。「君の神父になるという決断はそんなに簡単なものだったのかね」と。
つまりこういうことです。

神父になることは人間としての(結婚の)愛を捨て去り、神に仕え、その愛を代行することである。と。
そして、一度神に仕えたものは簡単には人間の愛を追求してはならない。

宗教とは人間の愛を超越しているものである、ということです。

最近身近にこういう事がありました。
無宗教の私の友人がキリスト教徒の女性と付き合っていました。初めは特になんの問題もなく愛し合っていたのですが、ある程度期間が立つと女性の信仰のレベルが変わってきました。より強くキリスト教を信じるようになったのです。
ここまでだったら、特に問題はありませんでした。
しかし、女性は友人に日曜日のミサにきてほしいを言うようになりました。それはつまり、ただ同行してほしいといったものではなくキリスト教にならないか、ということです。
けれども、友人の中には宗教全般に関する否定的な考えがあったので、それを彼女に伝え断っていました。それがもとで喧嘩になってしまい、好きあっているのも関わらず宗教に関して折り合いがつかず別れてしまいました。
その時に友人は彼女にこう問いました。
「今回みたいなことがあったけど、君はキリスト教徒としか結婚しないのかい?」と

そして彼女はこう答えました。

「ええ、私はキリスト教の人としか結婚しないわ」と。

非常に残念なことではありますが、この友人のケースでは宗教が人間の愛を屈伏させたとしか言いようがないのではないかと思います。
人間同士の愛は信仰を超えられないのでしょうか。

超えられない限り、宗教間の対立は無くならないでしょう。

この2人に関して言えば、まだまだほかに自分に合った人がいるはずだから探せばいい。と言えるかもしれません。
しかし、宗教に関して言えば、ほかの場所を探せともいえません。
人間の愛が真実の愛に近づけば近づくほど ほかの愛の形との軋轢が増すっていうのも変な話です。

最後に「愛のむきだし」で語られた聖書の一部を引用します。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。  たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。  たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。   愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、  不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。  不義を喜ばないで真理を喜ぶ。  そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。  愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。  なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。   わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。  わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。  わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。  このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

最後の一文に希望をもてる気がしますが、それを言っているのも宗教であることを思うと・・・。
愛っていうのは難しいです。
しかし聖書もまた、矛盾に気づいて愛に希望を託しているのかもしれません。

2010年7月26日月曜日

文化の進化、本能の進化


こんにちは、もしくはこんばんは。ミズキです。
今回は人間の本能に関して書きます。

まず、みなさんに質問したいと思います。人間の本能は現代に合致しているのでしょうか。
どうでしょう。100%合致しているという人は少ないと思います。

人間が現代のように長生きになったのは人類の歴史の中でみればつい最近のことです。
それは平均寿命の伸びをみればわかります。
左のグラフでは1950年から2009年までにおおよそ日本において22歳も平均寿命が延びています。たった50年で22歳も延長しています。
人類がチンパンジーから分岐したのがおおよそ480万年前のことです。(http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1172050873)その長い歴史の中の50年といったら本当に短い時間でしかありません。

人間の本能が480万年のなかでどれだけ変わったかはわかりませんが、少なくとも寿命がここ100年200年に見せる変化に対応できるような急激な変化はしていないでしょう。
人類の生活文化は今急激に変化しました。しかし、それとともに人間の本能も急激に進化したわけではありません。つまり、現代の社会では人間は本能のままに生きていくことができなくなったともいえるのです。

これは苦しいことです。今までは「本能=生きるすべ」でした。しかし、人間の周辺が変わりすぎてしまったために今までの本能は「本能=生きるすべ」ではなくなってしまったのです。

つまり、話を簡単にすると、食べ物が目の前にあるという状態で可能な限り限界まで食べることがよしとされていた古来の本能は現代の毎日が食であふれているような時代には合致しない本能であると言わざるを得ないのです。
毎食、そんなことを繰り返していては太ってしまうのは当たり前なのです。

現代社会において人間は単純に本能のままに生きることが正しいことではなくなりました。
理性というなの抑止力を大いに利用しなければならないのです。

自分もまだまだ理性が利かないことがあります。それは未熟であるということでしょうか。
この問題はまだまだ、考えなければならないようです。

しかし人間は本能だけでは心地よく生きられなくなった。ということだけは確かです。

2010年6月27日日曜日

閉鎖空間、地球号


こんにちは、みずきです。

初めてのまともなブログ記事に、何が相応しいだろうかと考えましたが、あまりいい案が浮かばなかったのでmixiに初めて書いた「ビックリ○○先生シリーズI」を編纂して載せることにしました。
もともとは友人限定公開の日記だったので、言葉遣いや話の流れが無茶苦茶なものです。それを何とか人目に触れても耐えられるものにしていこうと頑張っていきたいと思います。

ちなみに、この「ビックリ○○先生シリーズ」は基本的にオリジナルの考えです。
どうか、最後までお付き合いください。

題して
「なんだかんだ地球号説」
 ここ最近は日本のメディアであまり取り上げられなくなりましたが、今なお地球上に住む人口は爆発的に増えています。↓のグラフを見てください。2010年現在では69億人の人間がいるとされ、2050年には91億人にまで人口が膨れ上がっています。このような人口の増加はどんな社会をもたらすか、皆さんは真剣に想像したことがありますか?2050年といったら40年後です。今の大人はかろうじて天国に召されているかもしれませんが、僕らのような20代30代の人は、この人口で地球上に取り残されたまま生活しなければならないのです。(宇宙開発が進まないと仮定しています)これは、断じて無視していい問題ではなく手遅れになる前に対策を練る必要がある問題なのです。こと未来に関する問題は今の大人(50~)の人たちに任せておくわけにはいきません。彼らには「基本的に」関係のない話なのです。

少し話を変えます。 

地球は今、温暖化に直面しています。
原因はIPCC(Intergovernmental Panel Climate Change)の第4次評価報告書第1作業部会報告書(自然科学的根拠)の政策決定者向け要約(すごく略して言えばSPM)によれば、人為 起源の温室効果ガスの増加であると「ほぼ断定」しています。

もちろん、温暖化の原因は諸説ありますし、IPCCも最近は怪しい噂がちらほら聞こえてきますのでまるっきり信用できることではありません。しかし、諸説唱える科学者で「地球号の気候システムに温暖化が起こっていない」という科学者ほど胡散臭いものはないのも事実です。つまり、温暖化は起こっている。これはIPCCも上記のSPMで「断定」しています。

今日、上記の温暖化をはじめ、砂漠化、塩害など様々な環境問題が着目されています。しかし、これらの問題に正面から取り組む前に考えてほしい問題があります。

それは、「地球上のエネルギー均衡の崩壊」という問題です。そして、これは先ほど述べた人口増加に関係しています。
聞きなれない言葉かも知れません。それもそのはずです。僕が勝手に考えました。

今度は単純に、近年の世界の問題を大まかに振り返ってみたいと思います。
  • 食料問題
  • 貧困
  • 砂漠化
  • エイズ拡大
  • 温暖化
まだまだあるはずですが、これだけでも頭が痛くなってしまう。
では、これらの問題と「地球上のエネルギ―均衡」とはどんな関わりを持っているのでしょうか?
そして、人口増加とどの様なかかわりを持っているのでしょうか。

みなさんご存知の通り、地球は「宇宙」という真空の空間で、太陽光と放射熱、たまに降ってくる隕石を除くあらゆる物質移動から基本的には隔たれています。ということはつまり、地球上のエネルギーの絶対量はほとんど変わらない。それは、太陽光によって得たエネルギー量(熱量)と宇宙空間に放射するエネルギー量(熱量)が等しく保たれている限り地球上にあるエネルギーは増えもしないし、減りもしないということです。
しかし、最近は、太陽光で得た分が温室効果ガスにより大気中に留められ、宇宙空間に奪われないで地球に残ることで出入りのバランスが崩れた。これが地球温暖化の仕組みです。
このような、エネルギーの出入りは地球上にもそのスケールを縮めることで当てはめる。

このエネルギーの出入りこそ「エネルギー均衡」の話であり、人口増加がどの様な問題なのかを明らかにしてくれるキーワードです。

エネルギーときいて皆さんはなにを思い浮かべますか?

例えば 

石油 
石炭
原子力

まだまだいろいろなものがエネルギーとしてあるでしょう。おそらく、みなさんが思い浮かべたすべてのものが基本的にはエネルギーです。では、その延長で、すべてのものをエネルギーにしてしまいましょう。地球上のあらゆるもの、生物も含めすべてをエネルギーとして考えてみます。経済学者がすべてのものをお金に換算して考えるのと同じことです。

そうすることで地球号の中の色々なエネルギーの動きが見えて来ます。
さきほどから述べている、人口増加は人類にエネルギーが集まってきたことを意味します。反対に地球号内に散在していたエネルギーが人類エリアに吸収され減ったことを意味します。人間という個体を維持するためにです。特に人類はそのエネルギーの集め方が半端なものではない。ひとつの対照的な例としてあげられる生物がいます。それは蟻です。蟻は、その全種族の全個体の合計の体積が全人類の体積を凌駕しているとされています。それにも関らず、何千万年と繁栄してきました。これはアリたちのエネルギーの集め方が人間と比べ少なく、地球号内のエネルギーのバランスを崩さずにいたからにほかなりません。

では、逆にエネルギーを自分のエリアに持ってきすぎている人間には何が起こっているでしょうか。
そこには様々な問題が見えてきます。

例えば、食糧難。

人間は周りから吸い込むばかりで、自分で利用できる形で帰ってくるようにエネルギーを放出しない。目の前のドーナツを食べてしまったら、二度とそのドーナツは食べられません。
もちろん、体外に排出したものを微生物が分解し植物の栄養となり、小動物の・・のような生態系をもとにしたエネルギーの循環がないわけではありません。しかし、現在、人間はその体の維持だけでなく、有形資産の維持のためにもエネルギーを集め、エネルギーをリサイクルしてくれる生態系を根底から破壊しているという状況です。森林伐採がその代表的なものでしょう。人間は、その人口増加に合わせて、エネルギーの集積のスピードと規模を拡大し続け、地球号内のエネルギーバランスを著しく破壊しています。

近々、人類は人類の外からエネルギーを十分に得ることができなくなるでしょう。エネルギーが人類に集まりすぎた結果、人類の周りにはエネルギーがなくなってしまうのです。そうして次に起こりうるのは、人類が蓄積したエネルギーの人類によるリサイクルです。物に限ったものではありません。ものは人類の糧にはなりえませんから、必然、リサイクルされるのは人体となっていきます。

「人が人を食う」

狩猟・漁労・採取からなる獲得経済が人類のなかで行われるのです。すでに人食は極度の貧困地域では確認されています。もしくは、死んだ人間を畑に肥料として撒くという、リサイクルの方法です。悠長に火葬などしている場合ではないのです。

 以上に述べたことが起こる時代が来るかどうかはわかりません。しかし、地球上のエネルギーは確実にバランスを崩しています。エネルギーを集め過ぎた人類は破裂してその文明を終わらすか、自己内リサイクルを行うのでしょうか?もしくは宇宙開発が進み地球号がもっと大きなものになるかもしれません。未来はわかりません。しかし、予測はできます。そして今を戒めることもできます。人間にはその力があります。

mixiでこの記事を載せたところあるマイミクがこのように言っていました。

「倫理的立場から考えて人喰いはない。倫理は人間と他の動物の大きな違いだからだ。」

僕には、まだ彼の信じていることを信じることができません。わからないのです。なぜなら人間は周りに影響される社会性も持っているからです。一度、行われてしまえばそれを止めることはできないでしょう。

ある統計では次のようなことがいわれています。
もし、地球上のすべての人が日本人と同じ水準の生活をしたら地球が2個は必要である。
もし、地球上のすべての人がアメリカ人と同じ水準の生活をしたら地球が5個は必要である。

すでに、日本やアメリカは人類として、地球号に住むには不可能なことをしているのです。日本、アメリカの生活が成立していることは人類の中でのエネルギーバランスもくずれていることを示しています。つまり、極端かもしれませんが日本やアメリカは既に他の人類をある意味で食い物にしているのです。


地球号の一員として、何ができるのかを考えること、そして何かを行動に移すことは日本人として、エネルギーをsuck upしている国の人間として義務のようなものではないでしょうか。日本は裕福ですが、地球号的には人類の誰一人としてその手と足、頭を止める時間などないのであると自覚しなくてはならない時分が来ています。

情報は与えられています。窓を開けて待っています。
それらを認知しどの様に処理し、行動の指針を決めるか。それは個人に委ねられています。それゆえ個人の責任は増していきます。知らん顔をしていられる時代は終わりました。行動を起こす時が来ています。いつでもあなたは一歩を踏み出せるのです。




2010年6月24日木曜日

Wisdom Without Any Account





こんにちは。はじめまして!
Wisdom Without Any Account へようこそいらっしゃいました。
今日から正式ブロガーdebutの Mizuki Nozue(野末 瑞樹)といいます。よろしくお願いします。ちなみにこんな顔をしています。

今回は、このブログを開設する目的を書きたいと思います。
つまり、今後、このWWAA(仮)カッコイイ略称募集してます)と皆さまがどのような関係を構築してくれると書いている僕が満足するかと言ったことを書きたいと思っています。
もちろん、読み手は神様、貴方(貴女)様、ということで僕の文章をいかように受け止め、ガッツり読むか、流し読むかは皆さまのご裁量にお任せすればこそ、僕にもそれなりに欲が・・(割愛。


まず、題:Wisdom Without Any Account の説明をすこしさせてください。

wisdom:知恵、知識
account:説明書
without:withの基本的意味は同伴、withoutはその逆を表し、「~なしで」という意味(Forest P.550参照)

つまり
wisdom without any account = 説明書のない知恵
という意味になります。

 世には知恵やら、知識、見識、などと呼ばれるものがたくさん転がっています。
簡単にいえばそれらはすべて情報です。その質は良質のものから悪質のものまで、様々です。また、偏在もします。それらのwisdomをどの様に集め、どの様に理解し、自分のものとし、扱うか。過去の歴史を見れば、正しくwisdomを扱えた人はいたかもしれません。しかし、それが万人にとって可能であったかどうかを考えると「」が付きます。そして今日、インターネットの普及によって情報は一瞬で世界にいきわたるようになりました。つまり、万人にwisdomを集める(wisdomの集合体にアクセスする)機会が与えられたのです。しかし、果たして万人がその機会を十分に活かし、wisdomを自身のものとしてうまく活用しているでしょうか?

こと、日本にいる限りにおいて、その機会を十分に活かしているとは到底思えません。
もちろん、少しの、希少で、能動的な人はこの機会を十分に活かしていることは間違いありません。けれども、大抵の日本人はそうではありません。
インターネットはどんどん進化、発展しています。どれだけの方々がその進化や、発展にcatch up しているでしょうか。

逆にいえばどれだけ多くの人が現在の情報流通の世界に満足していることでしょう。満足してしまうことは、なにも吸収しなくなるということです。満腹になったら箸は進みません。ある一定のwisdomに満足してしまったら、それよりも高度なwisdomを求める気にはならないのです。

もしくは、不満足であっても、何をどうしたらいいのか知らない、わからない人が多いのかも知れません。

むしろ、こっちの「現在の情報社会には不満足である」が「何をどうしたらいいかが分からない」人が大半ではないかと思います。

つまり、wisdom without any account ということなのです。

情報(wisdom)にはなんの説明書もありません。wisdomをどのように集め、どの様に理解し、どの様に発信すればいいのか。だれもそんなことは教えてくれません。もちろん、ある一定の扱い方を教えてくれる人もいるでしょう。しかし本質的には無理なのです。なぜなら1人1人が独立した、個別の人格を持っているからです。そのため情報は受け手によってその意味合いが変わってきます。

このWisdom Without Any Accountでは主に以下の視点に立って書きたいと思います。

  • 思いつきを語る。
  • 色々な文章を読んで受けた影響、考えたことを述べる。
  • 夢を語る。
 基本的に、みなさんにblogを読んでもらい何かしらの影響を与えられたらいいな、というスタンスで書いていきたいと思っています。時にはsuggestionし、時には疑問を投げかけ、時には手紙口調で文章を構成したいと思っています。私が日々、受け取る情報からどの様なことを思い浮かべたか、皆にどの様に思ってほしいかを書いていきたいです。想像力を使って書きたいと思っています。多少非現実的になったり、矛盾が生じるかもしれませんが、批判を恐れずにどんどん書いていきたいと思っています。
 
 情報を利用するとはどういうことでしょうか?僕には答えはわかりません。簡単なことのようでそうではないように思います。今、情報流通の世界は劇的と言っていいほど激しい変化の途中です。これからはどうすることが「情報を利用する」ことの最も有効な手段になるのでしょうか。
 このWisdom Without Any Account を通して、自分にとっての情報の取り扱い説明書を作れたらいいなと思っています。自分が得た情報を自分の中で消化、理解し、そして発信する。説明書が無いのは僕の中にあるwisdomにも言えることでしょう。あなたの中にも説明書のない部分があるはずです。説明書がなければ自分で説明するしかありません。
何に対して説明書を作っていくのか。どういった情報をもとに考えを作っていくのか。それを考えるとわくわくしてきます。
願わくば多くの人にこんな気持ちを味わって欲しいです。

僕の情報社会におけるキャリアは今日始まったばかり。
これから、私たち人間はどういった進化を遂げるのでしょうか。楽しみなようで不安なようで。先人の猿人類の方々はこのような社会を予想したでしょうか?それは当人に聞かなければわかりませんが、きっと未来に希望を持っていたことでしょう。
僕も未来に希望をもってがんばっていきたい。



最後に、稚拙な文章であり、誤字脱字もあるかもしれませんが末長くよろしくお願いします。