2010年8月22日日曜日

映画「愛のむきだし LOVE EXPOSURE」


日本にはさまざまな宗教があります。大抵の町には神社や寺が立っています。時にはお坊さんが駅で立っていることもあります。日本人は無宗教なんて言いますが「ばちがあたる」などといってちゃっかり神様を信じていたりします。
そんな曖昧な宗教感の日本だからこそなのか、さまざまな宗教が発生しては消えと、かなり不気味な様相を作り上げています。中には「洗脳」といった手段や集団スト―キングなどの手法を使っている宗教もあります。

そんな宗教集団を絡めて愛について描かれている「愛のむきだし LOVE EXPOSURE」という映画を先日観ました。

主演俳優は 西島隆弘
主演女優は 満島ひかり
助演クラスに 安藤サクラ 渡辺真起子 渡部篤郎

そして 原案・脚本・監督 園子温

映画は全部でなんと237分!
こんなに長い映画は初めてと言っても過言ではない。James Francis Cameron 監督制作、1997年公開のタイタニックですら189分ですから、237分というとかなりの長さだということがお分かり頂けると思います。

この映画のなかで語られているのは「愛」についてのなのですが、私はその中でも宗教における愛と結婚における愛の違いについて着目しました。

キリスト教では隣人を愛せという有名な節があることは有名だと思います。
しかし、同時に神父等は結婚を許されていません。神に仕えているかららしいのですが・・。
そして、結婚式も神の名のもとに行われ、永遠の愛を誓わされます。結婚を許されていない神父が神の代行を行っている結婚式で、です。

映画の中で神父である主人公の父が再婚するために神父をやめなくてはならない場面があります。そこで、先輩の神父がこういいます。「君の神父になるという決断はそんなに簡単なものだったのかね」と。
つまりこういうことです。

神父になることは人間としての(結婚の)愛を捨て去り、神に仕え、その愛を代行することである。と。
そして、一度神に仕えたものは簡単には人間の愛を追求してはならない。

宗教とは人間の愛を超越しているものである、ということです。

最近身近にこういう事がありました。
無宗教の私の友人がキリスト教徒の女性と付き合っていました。初めは特になんの問題もなく愛し合っていたのですが、ある程度期間が立つと女性の信仰のレベルが変わってきました。より強くキリスト教を信じるようになったのです。
ここまでだったら、特に問題はありませんでした。
しかし、女性は友人に日曜日のミサにきてほしいを言うようになりました。それはつまり、ただ同行してほしいといったものではなくキリスト教にならないか、ということです。
けれども、友人の中には宗教全般に関する否定的な考えがあったので、それを彼女に伝え断っていました。それがもとで喧嘩になってしまい、好きあっているのも関わらず宗教に関して折り合いがつかず別れてしまいました。
その時に友人は彼女にこう問いました。
「今回みたいなことがあったけど、君はキリスト教徒としか結婚しないのかい?」と

そして彼女はこう答えました。

「ええ、私はキリスト教の人としか結婚しないわ」と。

非常に残念なことではありますが、この友人のケースでは宗教が人間の愛を屈伏させたとしか言いようがないのではないかと思います。
人間同士の愛は信仰を超えられないのでしょうか。

超えられない限り、宗教間の対立は無くならないでしょう。

この2人に関して言えば、まだまだほかに自分に合った人がいるはずだから探せばいい。と言えるかもしれません。
しかし、宗教に関して言えば、ほかの場所を探せともいえません。
人間の愛が真実の愛に近づけば近づくほど ほかの愛の形との軋轢が増すっていうのも変な話です。

最後に「愛のむきだし」で語られた聖書の一部を引用します。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。  たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。  たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。   愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、  不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。  不義を喜ばないで真理を喜ぶ。  そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。  愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。  なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。   わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。  わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。  わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。  このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

最後の一文に希望をもてる気がしますが、それを言っているのも宗教であることを思うと・・・。
愛っていうのは難しいです。
しかし聖書もまた、矛盾に気づいて愛に希望を託しているのかもしれません。